シブヤの解釈

あの難解だった「シブヤから遠く離れて」の強引な自分流解釈を、何らかの形で残したかったので、ここに。いまさらながらに。

第一幕
ナオヤ(二宮)が下手客席通路から登場する場面。
これはケンイチ(勝地)を刺し殺したナオヤが、少年院から出所してふらふらと殺害現場を再訪する設定である。(手にしたダサいボストンバックで、出所を象徴させている)

ナオヤには姉がいることになっているが、彼の家庭の描写はない。むしろ家族を、ケンイチ家に求めていたので、出所後 ケンイチの家族が住んでいた洋閣に無意識に足を運んだのだろう。しかし、その洋閣は廃虚と化し、ケンイチ家は立ち去ってしまっていた。

この設定は、スタインベックの「怒りの葡萄」を思い出さずにはいられない。

怒りの葡萄」のオープニングは、殺人容疑の小作人の息子が入獄から4年ぶりに帰ってきたが、一家は新天地を求めて立ち去ってしまっていた・・・という設定であり、またシブヤ・の舞台で頻繁に登場する、小道具としての「ぶどう」は、「人の不正の象徴」として描写されていたから。

そこでナオヤは、殺したケンイチに会うという幻覚に陥ることになる。
(2000円を返すために来たというのは、その時に思いついたとっさの口実だが、深層心理に起因している確かな事実ではあるとも解釈できる。なぜなら、2000円という金額は、アオヤギ(杉本)がフクダ(立石)に渡す金額とリンクしているからである)

このケンイチの幻影がナオヤに見えるのは、ナオヤが今もなおケンイチを殺害した事実を受け入れておらず、かつての「温和な日々」の想い出を強く求めているからに他ならない。すなわち、ケンイチ(の幻影)は、ナオヤにしか見えない。(ケンイチが舞台に登場している時に同じ舞台にいるのは、ナオヤだけ。第四幕の冒頭で、ケンイチと会話しているナオヤを階下から見上げているフナキは、唯一の例外だが、逆にこのことによりナオヤ=フナキの設定を明確にしている)

第二幕
フナキ(勝村)は、ナオヤは自分の化身であることをしっかり認識している。それ故にナオヤのぶどうをうっかり食べてマリー(小泉)から「誰のぶどうよ、それ!」「あれば食べるってことでしょそれ、誰のものでも!」と追求されたときにも、ほんとは自分のぶどうだからと言いたいところを、なんとかはぐらかし、続いてアオヤギから、「だ、誰のだ・・・それ。」と言われても、「むしかえさないでよ、オレの体がちぢんじゃうじゃない。フフ・・・。」と、意味深な受け答えをしている。つまり、そんなに追求すると体がちぢんでナオヤになっちゃうぞと、会話を楽しんでいるわけだ。

またフナキはナオヤとの関係をナオヤ自身に気づかせようとするが、ナオヤがかたくなに否定するので、ついに「あんた、人を殺した・・・」と、関係者しか知らないことを口走ってしまう。

ナオヤが現実を見ないことは、マリーにも指摘されている。
第二幕の終わりにマリーがナオヤに向かって「あなたが引き渡そうとしないのは誰?
 ケンイチくん? ケンイチくんのお母さん? あなたが犠牲になろうとしないから、明日をむかえようとしないから、いつまでも二人は待っている、あなたが嫌いになってくれることを。そうじゃない?」と、過去にしがみつくナオヤを追求している。

すすき(上手の黒ひまわり)が揺れるのが、現実の世界と空想の世界の交錯を表現している。ただし、そこに黒っぽい服を着たお婆さん(ケンイチの母=マリーの未来)が見えてしまうのはマリーだけである。お婆さんに対して異常なまでの恐怖心を持っていることが、自分の死を予感していることの一つの表現であり、第四幕でマリーが殺された後ナオヤの前に登場する場所が、すすきのところだということにリンクしている。(ナオヤはこの時点では過去の良き日に執着しているため、マリーのような未来に対する恐怖心は全く持っていない)

アオヤギが二階から落ちたことは、その存在がケンイチの化身なことを現す一手段。


第三幕
ナオヤとトシミ(蒼井)のやりとりは、かつてのナオヤとアキのやりとりの再現。ナオヤが何らかのカタチでアキに接触を迫った過去があることの確認。すなわち、ケンイチ家の家庭崩壊に、ナオヤは全面的に関与していたことの証し。

最後のアオヤギ父(清水)がマリーの部屋から、燃えかかっている札束を手に出てくるのを、階段の途中でしのび笑いしながら(または泣きながら)見ているナオヤは、かつてケンイチの母が客を取っているところを見てしまった自分をだぶらせている。
(ここではマリーの姿は見せない演出)

第四幕
ナオヤは、ケンイチとの会話によって「過去への反省」を意識する。それに乗じて、「過去から現実へ」目を向けさせようとフナキが会話するが、まだナオヤの心は過去から抜け出せないでいるのが、第四幕の冒頭シーン。

ところがナオヤは、ケンイチも毛嫌いしていた黒服の男たちに、マリーとアオヤギが殺されるのを目の当たりにしたのを契機に、死んだマリーを自分の意識の中で蘇らせること(演出的には、血で染まったカーテンが白くなり、マリーがはじめてナオヤに会った時の衣装で登場)によって、徐々に現実に目覚めていく。

成長のとめっこをしている(=嫌いになる明日がこない=愛し合っている)ナオヤとマリーが、死んだふりをする特技を持つ小鳥を放つことによって、明日に向けての一歩を踏み出す象徴とし、それを死んだマリーに「しあわせになるって、かんたんなことね!」と大見得を切らせる。

最後にナオヤはフナキという現実の自分に対して、過去の出来事の象徴とも言える「腕時計」を差し出すことによって、過去との決別を告げる。

・・・というように、坊主の視点では、この舞台は、「邸宅に思いを残す青年と、この建物さながら蝕まれゆくわが身をもてあます女の、現前化しない愛の物語」というよりも、むしろ「ナオヤが出所してから自らを取り戻すまでの現実逃避行物語」だと感じた次第のおそまつ。

あー、すっきりした。