「エドモンド」鑑賞記録のまとめ

ながぁ〜い、自らの鑑賞記録です。
エドモンド」を見ていない人は、読んでもつまりませんので、あしからず。

  ◆ 一鑑賞目/Bブロック (8月23日ソワレ)

正直言って「重い」舞台だった。80年代の匂いがぷんぷんする、いわゆる「戯曲」作品だと感じたのが第一印象だった。

直前に観た舞台が、長塚氏の「LAST SHOW」であり、ふだんも野田作品や大人計画、新感線、若手のワークショップ的な舞台を多く観ている自分としては、「エドモンド」のような「笑い」のないシリアスな舞台に正体すると、「何を訴求したいのかを把握しなければ」と構えてしまう傾向にあるようだ。(WOWOWでは蜷川・大竹の「メディア」を観た直後だったし)

実は1970年代、アメリ東海岸の大学に留学していた四年のうちの二年間を、その地方都市の黒人街のアパートで彼らと生活したことがある自分にとっては、「黒んぼ」(おそらく原語ではnigger)という「差別用語」に対して、今でも異常な不快感を持ってしまうことに、今回気づいた。

これは、生理的な不快感なので、ある意味では仕方のないことだが、八嶋エドモンドがその「言葉」を最初に発した時は、耳を両方の手のひらで覆いたくなるほどだった。

しかしながら、その「言葉」が繰り返し八嶋エドモンドらから発せられるたびに、徐々にその不快感が薄れて行くのが自分でも解った。おそらく「生理的な感情」を、「ある種の理性」が徐々に包み込んでいったのであろう、と自分では解釈したが。

そして刑務所の監房で、先輩の大森黒人囚からフェラチオを強要されるシーンから、最後のキスするまでに至る「心の昇華度合い」(八嶋氏は、「魂の解放」と表現しているが)が、すんなり受け止められたので、逆にびっくりしたというのが、はじめて「エドモンド」を観終えた、素直な感想である。

それに付け加えるならば、この舞台は、八嶋エドモンド以外の登場人物が、いかに演技で「関わる」かによって、主役・八嶋エドモンドの演じ方、ひいては舞台そのものの出来を左右するのだろうなー、とも。

でもやはり、この舞台を評するならば、八嶋以外の出演者の出来がどうこういうよりも、八嶋エドモンド自身の演技力や、今までのイメージの裏切り度合いを展開させた方が、書きやすいのは事実であろう。

というわけで今回の舞台鑑賞評は、はじめて「エドモンド」を観たところのトータルの印象を思いつくまま記したものであり、残念な豊田監督逮捕のニュース前に書かれたモノであることを付記させていただきたく。


 ◆ 二鑑賞目・Dブロック (8月30日ソワレ)

前回の「シブヤから遠く離れて」の時と違って、二度目の鑑賞で新たな発見をするということはなかったが、逆に言えばそれだけ初めて観るだけの人にとっても解りやすい芝居だということができると思う。

初回時と比べてシーンごとのシチュエイションとか、セリフ回しが、くっきりと浮かび上がってきた印象はあるが、よくも悪くも、印象としてはそれ止まりであった。

ただ、作者〜演出家〜演技者〜観客へのメッセージは、ストレートなようでいて一筋縄では行かないようであり、複雑で深く、まだ作者からのメッセージをしっかりと受け取りかねている状態ともいえる。だから、「シナリオ本」を探して読んでみたいと、今は、すごく思っている鑑賞二度目の夜であった。

小泉さんの演技に関して言えば、前回とは異なり、妻とグレナのキャラクターがかぶってしまっているように感じられてしまったが、これは演技を修正した結果なのだろうか?

というのは、冒頭の妻役での感情の抑揚は、初回見た位置がBブロックと妻役の真後ろだったから表情が見えない分だけ感情を押さえた演技に見えただけかもしれないけれども、初回のようにもっと抑えたほうがいいと感じたからである。


◆ 三鑑賞目、四鑑賞目・共にEブロック (9月6日、9月13日共にソワレ)

三回目、および四鑑賞目(千秋楽)の鑑賞は合わせて、作者が訴えたかったことについて、推察してみることにした。

あ、その前に。これは過去二回見たときも感じていたことだが。
眼鏡をはずしたヤッシーの演技は、熱演すればするほど、片岡鶴太郎の若い頃を思い出させてしまう。どちらかといえば、青くクドく感じてしまう。
(特に、股を広げて、猫背で前屈みになり、顔を立てて絶叫するポーズ)
これは、どんな名俳優も通らねばならない道なんだろうとは思うが。

占い師の所に行く前に、エドモンドは何をどう考えていたのか、なぜ占い師のところに行ったのか、と複数の出演メンバーが感じていたらしくパンフレット上で論じていたようだが、すくなくともあの時点では、「女房とうまくいっていないから」とかの具体的な悩みがあったためにそこに行ったのではない設定になっていることは確かだ。ただ漠然と「違和感」を感じていただけである。

占い師に「あなたは、あなたが本来いるべきところにいない」と言われ、なんとなく納得したような表情。ここでのキーワードは「前兆」である。決して「遺伝子」とか「星回り」とか「今日、食べたもの」とかではない。(これらのフレーズが何度も何度も占い師の口から出て来るのは、「前兆」を強調するため)
「ものごとには、全てその前兆となることがあります。」  すなわち、占い師は、エドモンドの方向性を示すモノゴトにはいっさい口に出していない。

バーにて、エドモンドは「自分が男じゃないような気がする」と自覚する。それに「女房とうまくいっていない」ことを解決する手段は、「女とやること」だと客に指摘され、納得する。ここで初めてエドモンドの行動の方向性が提示されたわけだ。この場面でのキーワードは「逃避」。日々のストレスを回避するためには、現実から「逃避」せねばならず、その逃避の方向は「女とやること」であると。

それ以降、コーヒーハウスでグレナに逢うまでは、「女とやること」を金で買うという初めての体験に対するさまざまな葛藤。それに伴い、経験する苦い体験。ここで、エドモンドの思考体系の中での、白人←→黒人の構図がくっきりと提示される。

妻と印象がだぶるグレナとSEXを「やって」自信を得たものの、自分の思い通りの思考をしないグレナにいら立ち、殺めてしまう。自分の思考以外の全否定。全拒絶。それ故の、刺してからも「お前が悪いからだ」と責任転嫁。責任からの「逃避」。自分こそが正しくて善良な市民であると、自分以外の人間は狂っているとの自己防衛思考。
これは、地下鉄での日傘の女との絡みでもしっかり演出されている。

拘置所にて「先輩黒人」から、フェラチオを強要され、犯される。
「先輩黒人」から、「このアマっ!」と呼ばれる。
「おかま」が大嫌いだと言っていたのに。

エドモンドの価値観によると、白人優位、男性優位の立場が、音を立てて崩れ落ちる瞬間。黒人男性にレイプされたからには、黒人女性はおろか最も嫌っていた「おかま」と同様の位置づけになってしまったという、自堕落状態を自覚せざるを得ない。


この(みじめな)結果と、教戒師との対話によって、こころがからっぽになる。「こんなはずじゃない」と、妻と別れて家を飛び出してから、ずーっと思い続けてきた糸が、プツンと切れてしまったかのように。

そこで「今まででほんの数分しか生きちゃいない」と、自分だけの意志で「生きる」ことが至上であると思ってきたが、他人との関係において「生きる」ことに意味を見い出したことが、この舞台での結末のように感じた。しかし、この結末はけっして「光」ではないことを、作者は訴求したかったかのようだ。

キョンちゃんの演技に関して言えば、二鑑賞目とは異なり、妻を押さえ気味の感情表現にし、グレナの後半は絶叫型のセリフ廻しで演じ分けていると感じた。これが「感情を入れない方が、いいセリフもある」ということの派生型だと思う。この変化は、演技を(演出家がいないうちに)修正した結果なのだろうか? それとも全く同じように演じているのに、こちらの心の状態が異なっているから、そのように感じたのだろうか?

一人の女性の役を演じ続けた訳ではないので、すなわち、時間経過による心理状態の変化を様々に演じ分けるような役柄ではなかったので、「演技力」については多くを語れないが、逆に、あえて主役以外のこういう「役柄」に挑戦するという姿勢を、僭越ながら高く評価したいと思う。

いやあ、よく書いたなー。