クリスマスイヴな日(=オヤジの命日)

かくして楽しいオフ会が終わり、午前中に茅ヶ崎へ到着した。ところどころで記憶は跳んでいるほど飲んだわけだが、例によって二日酔い等全くない気分良好状態で、天気もよい。

昼頃、兄貴から電話あり。「病院からオヤジの容態が変化したとの連絡があった」ということを、とりあえず伝達しただけの内容だった。この時点では、重要視しないでよい連絡だと判断。

15時頃、再び兄貴から電話。「おまえも、来れるのなら来た方がいいと思う状態だ」「わかった、それならすぐ向かうから」との短い会話で、茅ケ崎を発つ。もしもの場合でも、すぐには葬儀までやれないだろうという読みの元に。(兄貴とオヤジの会社は、パンの配送販売を生業としているため、24、25日はクリスマスケーキ配送のピークであり、かつ年内は27日までフル回転営業な零細企業なので、社葬とするためにはそれまでは休む訳にはいかないから)

名古屋は、先日の58年ぶりとかの大雪が所々に残っていたが、グッドイヤー製の靴底である必要はなかった。名古屋駅からまっすぐ国立病院へ向かう。二人部屋の病室に寝ているのはオヤジだけで、兄貴とオフクロが傍らにいた。点滴やら酸素マスクをはじめ、数々のコードがオヤジのカラダに装着されていた。ベッドの脇の小型モニター画面に、上から、心拍、血圧、体内酸素濃度、脳波、吸気状況が表示されている。血圧と体内酸素濃度がデジタル数値で、それ以外は波打つラインで。

酸素マスクをつけた口から、「すはぁ〜」というよりも「 んかぁ〜」に近い乾いた吸音をさせて、懸命に呼吸しようとしているオヤジの姿に、「生物」としての迫力を感じた。既に意識はなさそうで、話しかけても体の動きとしての反応が返ってこない。

18時半頃、クリスマスケーキの配送の途中で義姉貴が病室に到着したので、オフクロを連れて兄貴と先に食事に行く。途中のケンタッキーFCの周りにあふれるクルマの多さに、ああクリスマスイブだからなんだな、と思う。 入ったとんかつ屋のテーブルで兄貴の正面に座り、始めて兄貴とペアルックであることに気づく。どっしゃ〜〜〜。

細うねで濃い色のコーデュロイパンツに、明るいレンガ色のUNIQ○O製フルジップフリース。聞けば兄貴のは2005年型で、ボクのは2003年型の違いはあるが、何十色もある中で全く同じ色を選択し着ているとはっ! (ボクは違う色も持っているのに) 普段は人の目なんてほとんど気にしないのに、さすがにこの時ばかりは、ちょっと気になって、50過ぎの男兄弟(だとすぐわかる顔立ちらしい)がクリスマスイブにペアルックをしている言い訳を考えたりしてみた。

オフクロを家に送り届け、兄貴と病院に戻る。今晩はオレがついてるからと、兄貴と姉貴を職場に戻す。
19時20分に看護婦さんが定期見回りに。血圧80〜35、体温36.9℃。呼吸する時に痰がからんで苦しそうなので、鼻からビニールパイプを入れて吸引するという。が、鼻からビニールパイプを入れられるほうが苦しくないのか?

19時35分、体内酸素量が80台まで低下したので、酸素マスクの酸素濃度を100%にする。それでも90を超えない。90以上ないと皮膚や粘膜が青藍色に変化してくるらしい。看護婦さんが、「耳は最後まで聞こえるので、何か耳元で話しかけてあげてください」というけど、「がんばれ」とだけは、決して言うまいと再決心した。もう十分だ。もう苦しまないでほしい。がんばらなくてもいい。

「○○○○(←ボクの名前)だよ。今晩はずーっとそばにいるからね。」と左腕に手をあてて耳元で話しかけてみた。目はもう薄目を開けた状態で動かないが、体内酸素量が、すーっと96まで上がり安定した。なんかうれしいような複雑な気持ちだった。

21時30分、血圧76〜23、体温37.4℃。おむつを取り替えてもらう。便は出ているが尿は出ていない。
尿が出ないと体に毒素が蓄積されていくという。おむつを取り替えるために体を横向きにするだけで、心拍が大きく乱れる。

  ◆
オヤジは二度の脳溢血による手足の麻痺、言語障害から諦めることなく、執念のリハビリで立ち直ったものの、肝臓に癌が発見され、腸に穴があいた状態でリハビリセンターから国立病院に運び込まれてきたのが12月の初め。あと1〜2ヶ月の命と医者に言われたので、ひ孫を連れて見舞いに行ったのだった。最後の入院からは、早や既に一年が経とうとしている冬だった。
二日前までは、意識もしっかりしており、見舞いにきた人とも会話していたらしい。

  ◆

22時30分、血圧測定できず。「ご親族に集まってもらってください」との指示を受ける。兄貴に危篤状態である旨を電話する。看護婦さんが、主治医と連絡が取れないとばたばたしている。それに対し、こちらは心静かに、ほんとに冷静に、いわば客観的にオヤジを中心とした情景を見守っていた。

22時55分、脳波を示すグラフが直線状態になる。 呼吸は、間隔が伸びたが まだ続いている。しかし、体内酸素量が60台まで一気に下がる。さらに呼吸の間隔があく。   さらに体内酸素量が下がっていく。。。。兄貴たちは、まだこない。。。。。

23時12分、心拍が停止。呼吸も気がつけば止まっている。安らかな顔だ。

23時16分、当直医が到着し、瞳孔などをチェックして死亡を確認する。若い当直医から、テレビドラマで幾度となく見てきたような「午後11時18分、ご臨終です。」という言葉が発せられたので、「いや心拍が止まったのは12分でしたよ」と答えると、「いえ医師が死亡を確認した時刻が死亡時刻となるものですから」と言われる。 ふうん、そうなんですか。じゃあ、あなたがあなたの都合でもう10分遅れてきたら、死亡時刻がもう10分伸びるということなんですね、ということは口に出さなかったけど。

ウチの家系は、薄目を開けて寝る特技を持っている(兄貴も、ケニヤも、鳩も!)ので、総本山であるオヤジも死んでも薄目を開けていた。ので、まぶたをそっと閉じてやる。兄貴が到着した時には、既に看護婦さんが体を拭いてくれ、ひげを剃っているところだった。

結局、毎日一年間にわたって看病してくれていた姉貴や兄貴ではなく、たまたま呼び出されて行ったボクだけが、死に目にあえてよかったんだろうかという気持ちはないわけではないが、生きているオヤジに最後に触った者として、これが巡り合わせなんだ、何かを託された運命なんだと思うことにした。

姉貴も到着したので、すぐに葬儀段取りの協議に入る。互助会の事務所に電話して、日取りの希望を伝え、空いている会場を借り押さえしてもらう。早朝、ウチのおっさま(住職)に連絡し、そのスケジュールで問題なければ会場と時刻が確定するとのこと。とりあえず遺体を実家に運ぶため、25時に病院に来てくれるよう頼む。

定刻通り、互助会の担当者が病室に現れる。用意したストレッチャーに遺体を乗せて。病院側も、一時間でも早く出て行ってくれることを望んでいるに相違ない。死亡診断書を兄貴に手渡すと、遺体搬出口から出る時に、主治医と看護婦さんは半袖の白衣のまま、寒空の深夜、深々と礼をして見送ってくれた。

遺体が帰るべき家は、会社の最上階の4階の住居部分である。普段なら、荷物運搬用エレベーターで一気に運べるところだが、日中に起きた震度4の地震のせいか、エレベーターの扉が開かない。ので、外階段を業者の人二人とボクとの三人で4階まで遺体を運び上げたときには、丑三つ時の寒さの中でも汗をかいていた。作業中、オフクロが「うるさいねぇ、夜中に」といって起きてきたが、オヤジが死んだことは知らせずにまた寝かせる。

とりあえず仏壇前に遺体を安置させ、兄貴と姉貴に仮眠を取らせて、昼間の移動中に購入しておいたバーボンのポケット瓶をぐびぐびやりながら、考えてみた。兄貴の会社の、一年で一番忙しい日が命日になったということは、これから毎年、オヤジ(会長)がその日の動向を見守っているぞ、ちゃんと働いて繁栄させよ、というメッセージを(ちょいとぐうたらな)兄貴に残したということだよな。すげーよ、オヤジ!

明け方に、少しうつらうつらして、クリスマスの朝となった。